私は「子どもの可能性を信じつくす」をコンセプトに、「すべての子どもが伸び伸びと『自分のありたい姿』を目指して成長していくサポート」をすべく、この「学び舎 子どものみかた」を運営しています。

「子どものみかた」とは、私の夫がつけてくれた「私を一言で表すキャッチフレーズ」でもあります。夫から見た私は「子どもを子ども扱いせず、一人の人間として接していて、その姿に真摯さを感じる。そして、その子が本当に望んでいることなら望みを手放しさえしなければ、たとえ時間はかかっても必ず実を結ぶと本人よりも信じているでしょ。その姿は、まさに『子どもの味方』だよね」とのこと。

実際、私は子どもを見ていると、一人ひとりが色とりどりの光を放っているようで、とてもカラフルに見えて嬉しくなります。

その光が曇ってしまわないように、傍で見守る存在でありたいと願っているので、「子どものみかた」は私を表すキャッチフレーズとしてピッタリだと思っています。

ー 経歴 ー
2004年 教員免許取得
2004年 最大手個別指導塾 教室長
2008年 台湾国立師範大学大学院 留学
2010年 最大手家庭教師企業 管理本部
2015年 個人経営の少人数集団塾 小中学生担当講師
2018年 フリーランス家庭教師

物心つく前から「絵を描くこと」が私にとって、すべてでした。幼少期は父子家庭で、日中父のいない時間はずっと絵を描き、父が帰ってからも絵を描く日々。「いい加減寝なさい」と電気を消され、布団に入った後も、こっそり布団の中で絵を描き続けるような子どもでした。そんな私にとって、将来、絵描きになるのは疑う余地もない当たり前のこと。いつも一人で絵を描いていて、友達といえば、お月様や植物たち。転機となったのは、父の再婚でした。

小学4年生のとき、父が台湾人の母と再婚。母の連れ子として現れた5歳下の妹は、まるで天使のような可愛さ。さらに、小学6年のときに末の妹が生まれ、天使が2人に増えました。

私にとって今でも子どもたちが宝物なのは、ずっと一人っ子だった自分に突然2人の天使が舞い降りたこと、そして、その可愛い天使たちの面倒を見ながら育った経験が多いに影響していると思います。

しかし、ちょうどその頃、父が職を失い、我が家は一転極貧生活へ。母も子育てに不向きで、夜の仕事をしていたので、私が妹たちの面倒を見ることになりました。中学生になっても状況は悪化の一途。明日のお米がない。電気が止められる。修学旅行の積み立てもできない。そんな貧しい生活でした。

いつしか家計を支えるためにコンテストの賞金目当てに絵を描くように。そうやってお金を稼ぐために絵を描いているうちに、絵を描くことが苦しくなりはじめ、いつしか絵描きになる夢への熱意は失われ、「もっと手堅い職業に就こう」と思うようになりました。

苦しい家庭環境の中でも、先生方に恵まれ、いろんなサポートを得て、どうにか奨学金をもらいながら通える公立の進学高校に行けました。

中学の美術教師Y先生は、私に美術の基礎を教えてくれました。画家でもあったY先生は、私に「自分が納得のいくまで自由に描くこと」と「コンクールで入選するための技法」の違いを教えてくれました。先生がいなければ、我が家は野垂れ死んでいたかもしれません。

中3の時の担任(通称ミキエちゃん)は、義務教育が終わったら就職しようと考えていた私に、「いま、見切りをつける必要はないんだよ」と全校で1名のみ推薦の奨学金に私を推薦してくれ、そのおかげで高校へ進学することができました。

進学した高校の担任のO先生は、妹を保育園に送ってから登校するとギリギリ遅刻になってしまうことを気にかけてくださり、15分までの遅刻は朝礼出席扱いにしてくれました。奨学金をもらっていた私にとっては、出席状況は死活問題だったので、本当にありがたい配慮でした。

校則でアルバイトは禁止されていましたが、我が家の事情を知ったH先生が校長に掛け合い、特例として私のアルバイトの許可をとってくれました。そのおかげで家にお金を入れながら勉強を続けることができました。

また、H先生は、私が進路指導部の先生方に東京の有名大学を強く薦められて困っているのを見かねて、進路指導の先生を説得し、特待制度が充実し、諸費用・交通費の安い大学を調べ、1年バイトして貯金ができたら入れる大学を提案してくれました。

大学には1浪して、1年間アルバイトした貯金、特待制度を使い入学。いくつかのアルバイトを掛け持ちしながら、親身な教授たちと職員のみなさんのおかげで、無事に卒業することができました。

経済的な事情で進学を諦めていた私が義務教育以降も、高校・大学と進学・卒業することができたのも、教育の道を志すきっかけとなったのも、何が私にとって望ましいのかを真剣に考え、私の可能性を信じてくださった、素晴らしい恩師たちに恵まれたおかげです。今でも心から感謝しています。

貧乏暇なしで忙しい学生生活でしたが、2人の妹の愛くるしさが私にとっての喜びのすべて。彼女たちが笑ってくれるだけで私も幸せでした。妹たちの笑顔を絶やさないように、私にできることは何でもしたいと思っていました。

そんな妹育ての日々でつらかったのは、学校帰りに妹たちを連れてスーパーに寄っても、彼女たちの欲しがるものを買ってあげられなかったことです。お金がないために、我慢させることのつらさは、心身ともに沁みました。運動の得意な上の妹が陸上競技会へ出場が決定したとき、妹のボロボロの運動靴に気がつきました。ところが、我が家の懐事情では、新しい運動靴を買えませんでした。それでも、陸上競技会で1位になった妹の笑顔をみて、誇らしく感じました。

教える仕事としては、19歳で家庭教師や集団塾の講師など教える仕事のアルバイトを始め、大学在学中はそれに加え、公立中学校の補習講師などもしました。

  • 家庭教師

家庭教師を始めた頃、引きこもりの中3生の女子の担当になりました。初めは部屋にも入れてもらえず、扉ごしに話しかけること1ヶ月。すこしずつ心を拓き、部屋にも入れてもらえるようになり、そこから全教科の指導を徐々に始めました。彼女は中1から引きこもりだったので、小6の単元から復習を開始。遅れを取り戻していく過程で進学を考えるようになりました。それでも昼間は中々外には出られず、夜間に授業のある定時制高校に進学しました。ある日の昼間、私のアルバイトしていたスーパーに彼女が現れ、「先生、来てみたよ」と照れくさそうにしていた顔を今でもよく覚えています。

  • 個別指導塾

個別指導塾で講師をしていた時、強く印象に残っているのは、15年以上経った今でも交際のあるAちゃん。最初に会った彼女は、英語が大嫌いすぎて「I amって何?」という状態。その時は、高校受験まで1年を切っていた中2の2月でした。

出会ったときの彼女は、勉強習慣がまったくなく、授業態度も悪く、宿題もやってこない。彼女に、「本当に高校に行きたいの? 義務教育じゃないから行かなくてもいいんだよ。お母さんの働いた貴重なお金で勉強するんだよ。それでも行きたいなら、時間もお金も無駄にしないつもりで努力したほうがいい」と強めの言葉で話し、彼女を泣かせたこともあります。

Aちゃんはそれから勉強をし始め、英語好きになり、夏休みはアメリカ・ホームステイ合宿の審査を通過して、中学最後の夏休みを初海外で満喫し、公立高校英語科に進学。今は海外での仕事に邁進しています。彼女が嫌いだった英語は、彼女にとって最強の武器になりました。彼女は元来何かを突き詰める行動力にあふれる人なのだと思います。

大学で教員免許を取得し、故郷・茨城での教員採用を目指しましたがあえなく失敗、個別指導塾に就職し、新卒ながらに教室長を任せられました。

着任したばかりの頃、小3から不登校で中3で入塾した生徒がいました。高校進学を希望していましたが、出席日数が圧倒的に足りず、フリースクールに午前中だけでも行って、最低出席日数を確保するようにアドバイス。フリースクールのあと、家では勉強しないので「14時から教室に来て勉強するといいよ」と誘いました。教室が開く前の、事務・教務準備時間ですが、質問対応ならばできます。午前中フリースクール、14時から塾、夕方部活、夕飯に帰宅、夜はまた塾。そんな日々を続け、勉強の楽しさに目覚め、20台だった偏差値も70台まで上げ、第1志望校に見事合格。今では夢だった塾講師になり日々奮闘しています。

春、新入生を迎える時期、とあるお父様がいらして、光栄にも「娘をこの塾に入れたい」とおっしゃいました。経緯を聞くと、とある高校の先生でしたが、その年の新入生の成績トップから上位4名が当塾出身者だと知り、娘さんを預けに来てくださったのでした。確かにそこの高校へは4名進学していました。「とても素晴らしい生徒を沢山うちの高校に、ありがとうございます。」とおっしゃってくださったことが、とても誇らしかったのも思い出深いです。

私自身は新卒の若輩者ながら、生徒たちとご理解ある保護者様、優秀な講師たちに恵まれ、全受験生志望校合格と成績アップ、生徒数増加などの成果をあげることができました。しかし同時に、自分自身、大学から新卒後も教育業界しか見てこなかったため、将来子どもたちが羽ばたいていく社会への知見が圧倒的に足りていないのではないか。そんな思いが頭をもたげ始めました。

一人一人に適した進路指導ができるようになるため、教育業界以外の社会経験を積もうと、シッター派遣会社の管理部や、自身が派遣社員となり、不動産業界・IT関連企業で数年、OLとして働きました。

その後、以前から関心のあったカンボジアの教育行政支援について再考し、教育行政について学び直したいと考えていた私は、2008年、台湾師範大学大学院教育学研究科に進学。教育行政を学ぶかたわら、現地の人材コンサル会社で働き、語学講師や講師派遣のコーディネータをして台湾での社会経験を積みました。台湾には2年留学し、修士論文を出す前にアクシデントに見舞われ帰国することになってしまいました。

帰国後は教育業界に戻り、教育行政が活かせる、教育の管理に近い仕事をしようと、日本最大手の家庭教師派遣会社の管理本部に就職しました。

私に任せられたのは、会社の体質を変え、業務の無駄を改善をしていく役割。自分なりに最大限の力を発揮し、2000万円近い経費削減の成果をあげ、周囲の上司から高い期待の言葉もいただきました。しかし、それとは裏腹に子どもの顔が見えない職場に心に虚しさを感じはじめ、受ける期待からのプレッシャーが増して心身のバランスを崩し、ある日突然、パニック障害を発症しました。直接のきっかけは、本当に些細なことで、ある上司が一言「もういいよ」と返事した、それだけでした。

会社は1年も休職扱いにしてくれたのですが、結局は1年では回復は間に合わず退職。外出すら難しい数年を過ごしたあと、フリーランスや在宅中心でできる仕事として、翻訳・通訳を始めました。翻訳・通訳をしている間も、子どもと接する仕事ができないもどかしさを抱え、病気発症から5年ほど経ち、徐々に回復してきた頃、元職場の上司が起業して開いた学習塾で働くチャンスをいただきました。

持病を配慮して出勤時間に融通をきかせてくださり、私は塾長が掲げた「ライフスキル教育」という教育理念に心から共感して、小学生担当として、働かせてもらうことになりました。個人塾の大変さがありながらも、たくさんの子どもたちの笑顔を見ることができ、とても幸せな日々でした。

しかし、個人塾は経営上の問題に直面し、点数・偏差値UPという目に見える成果優先になってしまい、理念が揺らぎはじめました。「劇的成長」をビジョンに掲げ、別のステージを目指すことに。人を納得させるため、合格実績や数字の成果が必要なのは、よくわかりました。

でも、私は、他者の働きかけで子どもの内部に変化が起こり、その子の意志と行動の結果、「劇的成長」がもたらされることはあっても、他者が子どもを「劇的成長させよう」としてできることではないと思っていましたし、今もそう考えています。そして、一人一人の子どもに向き合い、個性を尊重していると、子どもによっては数字の成果が表れるまでに時間がかかることもあります。その時間感覚とスタンスが小学生担当講師の私と中学担当講師の間で合わなかったのです。受け入れ側が一枚岩になっていないと、子どもたちは安心してのびのびと好奇心を発揮することが難しいものです。そんな現実に私は悩み、大切に育てた蕾が萎れていってしまうような感覚に苛まれました。

幾度もの話し合いの末、私は「今は、もう目指す方向性が異なっている」と確信し、退職を選択。退職するまでの期間は、パニック障害の症状が悪化し、夫にカーシェアで送迎してもらうような日々でした。退職してからの1年とちょっと、極力在宅でできる語学講師と翻訳をしながらも、子どもとかかわる仕事をしたい気持ちは揺るがず、どうすれば自分を大事にしながら子どもたちを見ていけるのかを考え続けました。

学び舎「子どものみかた」にたどり着いたのには、2つの理由があります。

1つ目の理由。以前の私は「共感できる理念を掲げたリーダーの下で働けば、経営や教務以外のことに煩わされることがなく、子どもとのかかわり合いに専念し、理念実現に全身全霊を尽くせる」そう考えていました。しかし、理念を貫き通すことは本当に難しく、そして変化は自然で、時として必要でもあるがゆえの難しさを痛感。そして、以前と同じような考えのまま、子どもとかかわる仕事を始めると、自分の共感した理念が宙ぶらりんに浮いてしまった時、同じ轍を踏みます。

私自身も、掲げた理念や価値観は変化することはあるでしょう。でも、自分で決めた理念なら、自分の意志で始め、変化することがあれば自分で始末を付けることができます。「お前は本当にそれでいいのか?」幼少期、父は事あるごとに私に、こう問いを投げかけていました。自分の意志で本気で選択したことなら、自分の責任において始め、終わりを迎えることもできます。それは私の重要な価値観の一つでもあります。そして、徐々に、自分の意志で「学び舎」を始めることを考えだしました。

2つ目の理由。私は子どもたちのことになると、自分のことを顧みず、全身全霊を傾けます。その全力感が一部の人との摩擦を生み、自分をすり減らしてきたのも事実です。子どもたちの笑顔を見れば気持ちは満たされるので、心身が磨耗していっていることに気付きにくい。自分が疲弊した状態では、子どもにも良い影響はでません。そこで、自分が無理なく働ける、生きやすい環境も整えたいと考えました。最善を尽くして、子どもたちと保護者様が安心して通える居場所を提供する。子どもたちと共に長い時間を過ごす。それには、私も生きやすい環境を整えることが大切なのだと、学びました。子どもを尊重するように、自分の生き方も尊重する。そんな課題にも取り組みたいのです。

そんな想いが固まり、「子どもの可能性を信じつくす」学び舎を自分で開き、どんな時でも子どものみかたになって、子どもたちが「幸せに楽しく生きる力のある人に育つ」手伝いをしていこうと決心しました。私の取り組みは、私一人では成し遂げることはできません。子どもたち、保護者の方々、地域の方々、そして、「子どもの可能性を信じつくす」という理念に共感してくれる仲間が必要です。この学び舎に共感していただける方に応援していただければ幸いです。長文お読みくださりありがとうございます。